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ドク(毒)書日記

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●第143回●2009/5/6 追悼 清志郎

 RCサクセションの忌野清志郎が亡くなった。1980年頃のLPを2枚持っているだけで、決して熱心なファンではなかったが、喪失感は小さくない。

 それは清志郎が昔のロックにあったリリカルさと反権力性の両方を表現する数少ない存在だったからだろう。誰かがテレビでレノンに例えていたが、むしろ「派手なニール・ヤング」といったところだ。清志郎自身が70年代の中盤に長い不遇の時期を過ごして80年に再ブレークしていただけに、弱さを包む強さがあった。地位も金もない若者の歌をリアルに唄ったし、原発や君が代、北朝鮮などの禁句にも挑んだ。挑んだと言うよりも、オチョクリを入れたというべきか。

 たぶんエスタブリッシュな方々や「お文化」をもてあそぶような人は清志郎を嫌うだろう。だから、いいのだ。二極化が進み、長い物には巻かれようという時代だけに、清志郎のスピリットを忘れないようにしたい。

 30年前、1度だけ須坂市民会館でライブを観た。第一声は「ど田舎まで来たゼー!」だった。アハハ、軽い毒気がなけりゃ。合掌。

 

 

●第142回●2009/4/30『光市事件 弁護団は何を立証したのか』光市事件弁護団編著/インパクト出版会

 大阪府知事になる前の橋下坊ちゃんが「たかじん」のテレビで被告弁護団への懲戒を呼び掛けたのをはじめ、弁護団がマスコミの総攻撃を浴びた光市事件。被害者・遺族への同情をテコに、マスコミが事件を「消費」した典型だろう。弁護団の主張は新聞でもテレビでもほとんど報じられていない。

 「殺したことが事実であるならば、細かいことは言わずに死刑にしてしまえ」という感情が弁護団バッシングを支えているだろうが、最高裁が事実の解明を放棄しているのでは、法治国家とは言えない。感情国家だ。

 まず、夫人の殺害については、被告人が被害者の上に馬乗りになって両手で思い切り首を絞めたとされているが、被害者の首に残された4本の傷(蒼白帯)は下にいくほど長いという鑑定が出ている。馬乗りになって順手(人さし指が一番上)で絞めた痕跡ではないわけだ。つまり、逆手で絞めるということは「明確な殺意」につながりにくい。また、子どもの殺害に関しても、捜査段階の「床に後頭部から思いきり叩きつけた」という供述は法医学的に否定されているという。

 被告は父親からすさまじい虐待を受けていたという。被告の小学校入学式のある朝、父親は母親に暴力を振るい、それを見かねた被告人が父親の前に立ちはだかると、父親は被告人を足蹴にしてタンスの角で気絶させたという。父親の虐待は続き、風呂桶に頭を突っ込まれたり、殴られて鼓膜が破けたり、包丁を突き付けられたことも3度あったという。そんな中で中学1年の時に母親が自殺。親戚が確認したところ、母親の体にはアザがあったという。

 父親の暴力によって精神的な発達が阻害されたため、精神鑑定では精神年令が12歳で停滞しているとされ、家庭裁判所の鑑定意見では4~5歳で停滞しているとされた。このような被告人が供述で「ドラエモンが云々」と言ったからといって、裁判の撹乱だとは言えないのではないか。父親の暴力を避けるために、母親との関係は依存的・一体的になるというが、その母親の自殺の現場を被告人は見てしまっている。精神的なショックは計り知れない。

 順手でも逆手でも絞殺に変わりはないという「感情」も分からない訳ではないが、被告の生育歴を見ると、あながち無関係とも言えない。被害者(夫人)に対して自分の母親をダブらせて「甘えたい」という感情を持つこともあるだろう。甘えたい被告人が被害者から拒絶され、もみ合う中で叫び声を抑えようと逆手で口を塞いだという見方もできる。

 生育環境ついて最高裁は一審および旧控訴審の評価を否定して「高等教育を受けていることで、特に劣悪であったとは認められない」としている。高校へ行ける人に劣悪な家庭環境はありえないということか。裁判官の「常識」のレベルには度々驚かされるが、最高裁が今回の情状に目をつむるのには理由がある。

 「裁判員制度をこれから導入するにあたっては、裁判員が判断しやすいような基準じゃないといけない」と最高裁の裁判官が同時期に発言しているという。2人以上を殺したら基本的には死刑という基準を揺るがすなということか。

 なにも被告に肩入れをしているのではない。事実を事実として認定しない最高裁、それを伝えないマスコミの頽廃は目を覆うばかりだ。ネットには、このように入り組んだ事柄に対する反証力はあまり期待できない。新聞やテレビはもともと期待できない。出版というメディアの存在意義を再確認できる本でもあった。

 

 

●第141回●2009/3/28『初めての中国人』森永博志/マーブルトロン

 懐かしい名前を書店の棚に発見。NHKラジオが1970年代の「若いこだま」(ダサいタイトルだが)を引き継ぐ形でFMで放送した「サウンドストリート」は、佐野元春や坂本龍一、渋谷陽一などがDJを務めたが、私が一番熱心に聞いたのはこの森永博志だったと思う。青いほどの熱さが、まだストレートに通じる時代だった。FM40周年を記念して過去の番組の一部が「NHK青春ラジカセ」というサイトに公開されている。

 その森永博志が編集者だったことを当時知っていたかどうか、覚えていない。その後『ドロップアウトのえらいひと』という著書を90年代に読んだが、この20年ほど中国通いを続けていたようだ。

 本書は砂漠の緑地開拓者/山の郵便配達人/舟大工から石彫屋へ転身した職人/企業家/レストランのオーナーなど、都市と地方に出現した「初めての中国人」、つまり現代の等身大の中国人像をピックアップしたものだ。発展を遂げているとはいえ、共産党独裁の不自由さがあるため、日本人はそれを「見下し」の根拠としているが、著者は「日本に生きるわたしたちよりも、彼らの方が、全然、自由なのではないか」という。

 ソニーとラジカセを共同開発したフォスター電機は現在アップルと取引があり、中国の広州市に工場を持っているが、その創始者が中国の辺境を経巡っている。著者はそのラジカセを持参してシルクロードの砂漠でアーロン・ネヴィルを聴いていたという。内モンゴルやウイグル自治区の暮らしのスケールには引き付けられるものがある。

 

 

●第140回●2009/3/24『検索バカ』藤原智美/朝日新書

 前回と同じく芥川賞作家、藤原智美の評論。前作同様、ちょっと引っ掛け気味のタイトルが気になる。ITバカを揶揄した内容ではない。ネットでの検索が増えて自らの思考を放棄し、「空気を読め」という同調圧力のもとでも思考停止が進んでいる現在、考える時間を取り戻そうという主旨の本だ。

 今や辞書をひく代わりに検索をする時代だが、単なる調べものというレベルを越えて「みんなの気持ちが知りたい。そしてそれに合わせたい」という動機が隠されていると著者はいう。ランキング依存なども背景は同じだ。多くの人が主流派への同調を欲しており、そこへ「空気を読め」という同調圧力が加わる。著者はこの検索と「空気を読め」が一体となって進展してきたと見る。

 海辺のコンビニの駐車場で、4歳ぐらいの男の子が浮き袋を持って勝手に海岸へ歩き始めた時、その父親は「なにやってんだ」ととがめた後、「空気を読め。毎日いってるだろ」と叱りつけたという。著者が遭遇した一場面だ。「幼いころから親に常に空気を読めといわれて育った」という有名タレントも実際にいるらしい。島田紳助あたりがテレビで流行らせたこの台詞は、処世術というよりも行動規範となり、大きな強制力まで持とうとしている。

 日本人は「個」が確立されておらず、自分の意見をはっきり表明しないと言われるが、最近は対話や議論まで失われつつあるという。個人的な環境の違いもあるだろうが、昔は飲み屋でもケンカ腰の議論をしたものだが、最近は皆さん紳士でお上品だ(私も)。

 議論どころか、相手の価値観と相反するような意見も「言うと傷つくから」言わないのが礼儀らしい。著者の知る20代後半の会社員は、「なぜ、どうして?」という問いかけも、なるべくしなようにしているのだという。問いかけることは、相手を追い込むことにつながりかねないからだそうだ。その一方で、家に帰ってからサイトに本音を書き込んだりする。裏と表の使い分けがお上手なようで。気遣い過剰なIT社会とは、そういうものか。

 

 

●第139回●2009/3/13『暴走老人!』藤原智美/文芸春秋

 病院での待ち時間に耐えられずダダをこねて床に転がる老人/店のサービスカウンターでいつまでも怒鳴り散らす老人/口のきき方が悪いと女医に殴りかかる老人/コンビニで立ち読みを注意されてチェーンソーを振り回す老人……。

 こうして暴走する困った老人が増えているというが、本書は必ずしも高齢者を分析したり批判するという内容が主軸ではなく、情報化(ケータイ化)とそれに反して増していく孤独化や感情の爆発、過剰な丁寧化など、現代社会の生きにくさを抽出することに主眼が置かれている。老人はその象徴に過ぎない。

 ケータイやインターネットの普及によって、コミュニケーションはもちろん、文化活動や経済活動においても、その新しい環境を苦手とする「古い世代」が大量に生み出され、不適応症のごとく排除される。その典型が老人だ。老人の暴走は、「失われつつある私たちの身体性への、ひとつの抵抗なのかもしてない」という。

 著者は情報化・IT化に伴う社会変化は、人と人のかかわり方に最も大きな影響を与えていると見る。本来、数世代にわたってゆっくりと変わっていくべき人間の内面の基盤が急速に変貌し、人々の感情・情動のあり方が地鳴りを響かせながら揺れ動いているという。

 そして、社会がシステム化する中で透明なルール、マナーがいつの間にか出来上がり、そのルールに縛られて、やがては「怯える」ようになる。エスカレーターの半分を追い越し用に空けておいたり、車の運転で「お礼」の意味でハザードランプを多用するような習慣はかつてなかった。

 いまだ意識的に(意地になって) ケータイを使わないワタクシは、老人暴走族の有力な候補者だ。本田靖春を真似るまでもなく「物わかりの悪いクソジジイ」になりそうで、嬉しいやら悲しいやら。ケータイを使う際に、たまには少しの「ためらい」を持ってほしい、と思うのもジジイの冷水か。

 

 

●第138回●2009/2/26『カムイ伝講義』田中優子/小学館

 先週のテレビ朝日「サンデープロジェクト」で、閉塞した日本人が拠って立つべきものは何かという問いに、櫻井よしこが「武士道」と答えていてノケゾった。野球の「侍ジャパン」ならご愛嬌で済むが、右利きの評論家ってこんなものか。NHKの大河ドラマも百姓の悲憤をさておいて武士を極端に美化しており、当時の人々が見たら卒倒するに違いない。幕末時点で人口の6~7%しかいなかった武士という名の官僚を現代人はなぜこうまで奉るのだろう。戦国武将はタリバンだ、とまでは言わないが・・・。「歴史」の周辺には脚色が多い。

 本書は白戸三平の劇画『カムイ伝』を元ネタに法政大学の教授が江戸時代を「ふつうの生活」の視点から捉え直そうというもの。穢多・非人や百姓について論じられる前半は面白いが、後半に失速してしまうのが残念。

 著者の江戸文化論は批評精神が根っこにあることが凡百の大学教授が書くものとは違うところだろう。

 

 

●第137回●2009/2/25『出会いの風』松下竜一未刊行著作集2/海鳥社

 故松下竜一の未刊行著作集が福岡の海鳥社から全5巻で編まれている。少数派や異端者の姿を洗い直して、時代や人間の有り様を問う硬派のノンフィクションと、自らの弱さや窮状をさらけ出すエッセイが松下竜一の2つの顔だ。本書は新聞や雑誌に寄稿したエッセイが中心となる。

 表の顔であるノンフィクションについては、京都大学を中退して炭坑労働者に身を転じた炭坑作家・上野英信を師と仰いだ。松下がノンフィクションの第1作となる『風成の女たち』を出版後、本の主人公たちから回収と絶版を迫られ、相談に訪ねた際の上野の言葉がすさまじい。

《君ねえー、そんなことでうろたえるくらいなら、今後記録文学はやめたまえ。僕なんか炭坑の荒くれ男たちのことを書いてるんだから、いつも闘いだよ。ドスを持って乗り込んで来る者だっているんだ。きさん、また俺のことば書いちくれたなといって、枕元にドスを突き立てたりするんだ。命を張らずに記録文学は書けないものなんだ》

 また、上野は1972年の『天皇陛下萬歳』の取材時点で遺族から「書かないでほしい」と強く要請されたようだが、同書のプロローグでその遺族に語りかけている。

《あれほどあなたから「書いてほしくない」「そっとしておいてほしい」と要請されながら、その心情は私にも痛いほどわかるといいながら、なぜ私はあえて書くことを選んでしまったのか。誤解を恐れずにいえば、まさにその「書いてほしくない」「そっとしておいてほしい」ところこそが、私に書くことを迫ったのです。その点だけは、包み隠さず、ここではっきりさせておきます》

 「時間を惜しむな、金を惜しむな、命を惜しむな」という覚悟で書き続けた上野の土性骨が松下の大きな支えにもなったようだ。たかだか30年の間にノンフィクションの土壌もかなり様変わりしてしまった。

 

 

●第136回●2009/2/7『チェ/28歳の革命』スティーブン・ソダーバーグ監督

 けっこう評判になっているようだが、イマイチの感。脚本が悪いのか、監督が悪いのか。メキシコから粗末な船でキューバに乗り込む場面はないし、82人で上陸しながら十数人にまで仲間を減らし降伏寸前まで追い詰められながら盛り返していく様子が十分に描かれていない。そして何よりもチェ・ゲバラの内面を描き切っていない。カストロの描写も弱い。音楽も物足りない(キューバ音楽の黄金期なのに)。

 アメリカが威信を失いオバマが登場した今だから、タイミングは絶好。その分、評価が水増しされているのではないか。国連総会での議論を長々とインサートしていたが、意図が明瞭過ぎて安易な手法だと思う。スペインとアメリカというキューバを代々蹂躙してきた国の合作映画という点は興味深いが、やはり限界もあるだろう。中南米の人が作るべきだ。英米合作の『モーター・サイクル・ダイアリーズ』もイマイチだった。

 たぶん革命の失敗と死を描く続編の方が味があるのではないかな。字幕翻訳のiさん、どう? 文句を言いながらも、続編を観てしまいそうだ。

 

 

●第135回●2009/2/5『東京スタンピード』森達也/毎日新聞社

 取次(問屋)からの新刊の注文数に愕然とする。2~3カ月の間、編集に没入した後に告知をし、ある意味での客観評価が初回注文として出てくるわけだが、凍えるほどの冷や水だ。これでは再生産(新刊や重版)はできない。昨年も直売所の本で大いにズッコケたが、世間様と感覚がズレてきているのだろうか。

 さて、気を取り直して森達也の新刊だが、ノンフィクション作家が小説に挑戦した。不安が蔓延する2014年の日本で、セキュリティー意識が高まる中で恐怖と憎悪が感染して市民のスタンピード(集団暴走)が始まるというストーリー。

 当然、ノンフィクションと小説は文体も思考もまったく異なるわけだが、うならせるようなノンフィクションを数多く発表してきた森が、こんな凡作を世に出すとは。暴動の中で「きっと世界はひとつになる」とジョン・レノンを引っ張り出すに至っては、ノケゾルどころか、どうかしちゃったの?という思いがつのる。ジョン・レノンを水戸黄門の印籠のように使うのは、それこそ思考停止ではないか。

 

 

●第134回●2009/2/4『愛と痛み』辺見庸/毎日新聞社

 宮崎哲弥をして「最後の左翼」と言わしめる辺見庸の新作。先日、NHK教育テレビのETV特集でリハビリに階段を昇降したり街中を歩く姿が映された。病を得て少し険が取れたようだが、言説は丸くなっていない。

 本書の副題は「死刑をめぐって」。死刑問題を「思念の試薬」とするのは、これが根源的人間論にいきつくからだとし、次のようにも論じる。

《特殊日本のばあいは、日本型ファシズムや天皇制とその遺制文化、天皇制的エトス、死生観、「個」を決定的にすりつぶした民衆世界=世間、スターリン主義的な発想を原型とする左翼・市民運動、空洞でしかなかった戦後民主主義……にもふかくかかわり、いまだかつて醒めた眼で対象化されたことのない私たちの自画像でもありうる》

 死刑制度を支えるものは、「世界が滅ぶ日に健康サプリメントを飲み、レンタルDVDを返しにいく」ような「日常」であり、その日常とは取り乱すもの、かき乱すものを排除する「諧調」を求める。その諧調は「私」や「個」を希薄化した「世間」という協調的な一種のファシズムで成り立っている。「空気が読めない」などという警句は極めて日本的で今日的な言いぐさだとする。

 本来的に社会(society)や公(public)は個人の尊厳を前提とするが、世間では個人が陥没する。この世間の圧力によって死刑制度が維持されているというのが論旨の大筋だ。映画『靖国』上映の自主規制、少年犯罪に対する親の謝罪会見の強要、光市の母子殺人事件の弁護団への「公共敵」というバッシングなどもこの圧力による。人々は公共性なき日本で公共と世間とを取り違え、マスコミは世間の諧調を先導する役割を果たしているという。そして、今年から導入される裁判員制度は、司法に世間の感情をまるごと持ち込むことになりはしないかと危惧する。

 2006年にドイツの大作家ギャンター・グラスが、第二次世界大戦時にナチスの武装親衛隊に所属していたことを告白した。ここに個のありよう、歴史意識のありよう、モラルのありように日本との大きな差違を感じるという。

 『歌と戦争』(櫻本富雄著)によると、島崎藤村は政府が募集した軍国歌謡の審査員をしていたというが、本書によると「生きて虜囚の辱めを受けず」(捕虜になるぐらいなら死んでこい)という戦陣訓にも藤村は大いに関わっていたという。私たちの日常、私たちの世間、私たちの歴史は、信州の英傑である藤村先生がそんなことをしていた事実を伏せ続ける。

 

 

●第133回●2009/2/3『旅の途中』筑紫哲也/朝日新聞社

 筑紫哲也が昨年11月に亡くなった。近年は氏への批判本がいくつか出版され、ある勢力からは嘲笑の対象ともなっていた。それは右側からばかりでなく、佐野眞一なども近著『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』で沖縄を被害者意識に塗り固め、褒め殺しをした張本人として大江健三郎とともに槍玉にあげている。社会も経済も座標軸を失い、いら立ちを深める中で戦後民主主義とかリベラルが標的になっているのだろう。

 本書は田中角栄、岡本太郎、高田渡、美空ひばり、黒沢明、丸山眞男などジャーナリストとして巡り会った27人の人物論である。とりわけ興味深かったのは、深入りし過ぎて批判もあった辻本清美と、同業の本田靖春だった。

 本田に強い敬慕の念を抱く筑紫は、あえて病床を見舞わなかったという。「由緒正しい貧乏人」を自称し「物分かりの悪いクソ爺いの道を極めたい」と言い放った本田は、スマートさにおいては筑紫とだいぶ違うが、戦後日本を問うという根っこは同じだ。今日のニュースも戦後処理と地続きの問題は少なくないが、団塊世代にこれを引き継ぐ人はあまりいない。

 

 

●第132回●2009/1/30『誰も国境を知らない』西牟田靖/情報センター出版局

 という訳で(どういう訳だ!)、この間に読んだままのものを簡単に書いておこう。時間が経っているので、ちょっとピンボケかも知れないが。

 「月刊現代」や「論座」が廃刊となりノンフィクションの危機が言われている。筑紫哲也も亡くなった。雑誌では文春や新潮、テレビでは「たかじんの~委員会」のようなものが相対的に幅をきかせていくとしたら、この先うっとうしい世の中になる。

 そんな中で、この1970年生まれの新進ノンフィクション作家には期待したい。テーマは国境。韓国・中国と領有権でもめている竹島や尖閣諸島も含まれるが、イデオロギー的でないところがいい。他には国後島、沖ノ鳥島、対馬、硫黄島、小笠原諸島、与那国島、隠岐など。タイトル通り、我々は国境のことを何も知らないのだ。

 例えば天気予報で時おり耳にする沖ノ鳥島は日本の最南端にあるが、緯度はハワイのホノルルとほぼ同じで台湾の最南端よりもさらに南にある。サンゴ礁が隆起してできた環礁で、島といっても陸地は満潮時に顔を出す2カ所の小さな岩に過ぎない。もちろん定期航路などはなく、海上保安庁の職員や工事関係者でなければ上陸することもできないという。そんな南海の孤島へ、石原慎太郎の視察に同行して島への接近を試みるあたりは読み物としても面白い。それにしても、珊瑚の海上に無理矢理建てた観測施設は要塞のようでもあり、青い海とのコントラストが無気味だ。

 それぞれの国境を歴史的に遡ってみると、どの国もエラそうに領有権などを主張できないのではないかと思う。個人の土地所有も、いくら先祖代々の土地だと見栄を切っても、その所有の経緯には少なからぬいかがわしさがつきまとう。同様に国境というものもかなりいかがわしい。

 

 

●第133回●2009/1/29  2008年の新刊ベスト10

 2008年に発行された新刊の私的ベスト10(一部例外を含む)。1位(中上健二)と2位が物故者の評伝。10位は追悼の意味で。4位と5位が死刑制度に関するもの。4カ月ほどこの日記を書かなかったので3・4・7・9・10位について書いてない。ア~ア。1位『エレクトラ』はこの10年間で『こんな夜更けにバナナかよ』以来の傑作ノンフィクションだと思う。

1位『エレクトラ』高山文彦/文芸春秋

2位『越境者 松田優作』松田美智子/新潮社

3位『誰も国境を知らない』西牟田靖/情報センター出版局

4位『愛と痛み』辺見庸/毎日新聞社

5位『死刑』森達也/朝日出版社

6位『風俗夢譚』高部雨市/現代書館

7位『日本浄土』藤原新也/東京書籍

8位『暴力批判論』太田昌国/太田出版

9位『物乞う仏陀』石井光太/文春文庫

10位『旅の途中』筑紫哲也/朝日新聞社

 

 

●第132回●2008/10/2『ひとり出版社「岩田書院」の舞台裏2003~2008』岩田博/岩田書院

 このザマでは日記ではなく月記ですね。忙しかったことにしておこう。その間に秋が訪れ、オリックスの清原が引退だとか。あまり感慨はないが、スプリングスティーンをモロにパクった長プチの「トンボ」とかいうテーマ曲を聞かなくて済むようになることは喜ばしい。

 さて、本書は歴史・民俗学の専門書をたった一人で15年間に520点も発行する岩田書院の社主による日常雑記だ。専門書のため1冊数千円~1万円程度の高額本が主体で年商は1億前後。う~ん、小社の数倍だ。

 学会の集会への出張販売で50万円も売り上げるかと思えば、日帰りの地方への出張販売では、京都で6500円、飯田で1100円なんていう泣きたい数字も出てくる。

 360/500、230/400、260/400……。分子は在庫数で、分母は発行数だ。民俗系の落ち込みが著しく、実売で200部に届かない本が少なくないという。印刷会社への未払金が1500万円などと、身につまされるリアルな記述が続く。

 小出版社のハンデは昔から数々あるが、最も今日的なものがアマゾンだろう。小出版社の本は在庫が山ほどあっても、アマゾンでは「在庫切れ」で済まされてしまうことが多い。そこで、年間9000円のショバ代を払って6掛け(4割引)でアマゾンに直接納入している小出版社もある。しかし、ここでアマゾンと直取引をするかどうか、ゴマメの歯ぎしりかも知れないが、小さき者の姿勢が問われる。自ら小さな会社を起こしながら、唯々諾々と新自由主義にすり寄ることに抵抗があるか、ないか。

 その点で岩田書院はあっぱれだ。個人が出品する「マーケットプレイス」に出品すれば、「在庫あり」とすることができるのだという。しかし、アマゾン問題はさておき、この数年の売れ行きの落ち込みは深刻だという。人事ではない。

 

 

●第131回●2008/8/19『甘粕正彦 乱心の曠野』佐野眞一/新潮社

 ご無沙汰してました。猛暑とオリンピックで、読書量は激減。スポーツは最高の「気晴らし」なのだが、運動音痴の人には迷惑な騒音の日々だろう。

 さて、ノンフィクションの御大、佐野眞一の新作は、本欄の第19回で取り上げた『阿片王』の続編。主な舞台は戦中の満州、前作は阿片の元締めであった里見甫が主人公だが、本書は大杉栄を暗殺した後、満州映画協会の理事長となり敗戦時に服毒自殺をした甘粕正彦の生涯を追っている。

 結論を言ってしまえば、甘粕は大杉殺しの犯人ではなく、軍部に利用された生真面目な国粋主義者だったということを、傍証を重ねて論じている。新聞の書評では絶賛されていたが、私にはかなり退屈な本だった。大杉殺しの背後関係は当初から疑問視され、軍のスケープゴートにされたという説が当時からあった訳だから、いくら85年後にその確証が得られたといっても、ストーリーとしての面白味に欠ける。

 著者が主人公に寄り添い過ぎているように思えるが、大御所は「分かってないね」と言うだろうか。暑さのせいで私の頭が干上がっているのかも知れないが、続編に寡作なしの典型だと思う。満州に戦後日本の原形があるということは、この2冊でよく分かる。が、御大には今の時代と切り結ぶ作品を期待したい。

 

 

●第130回●2008/7/12『盆地』小林紀晴/えい文庫

 長野県出身の写真家。出世作『アジアン・ジャパニーズ』は興味のない分野ではないのだが、今さら万年青年・沢木耕太郎の二番煎じでもあるまいと未読のまま。本書は99年の『homeland』を改題して再刊したものだ。なぜ読んだかというと、御柱祭を中心に故郷の諏訪を題材にしていることもさることながら、第124回に書いたサブカルおやじの都築響一が、最も自分からは距離のある世界だということを記していたからだ。

 サブカルと土着的なものが対極にあるのは当然。どちらかにドップリ浸かっている人は単純明解でいい。だが、前回のブルースとバラードではないが、両者に足を突っ込んで自分の中で分裂している人もいる。私がそうだし、たぶん著者の小林紀晴もそうなのだろう。それは「東京と田舎」と置き換えてもいいのかも知れない。

 知り合いが少ないせいもあるが、同じ信州人でも諏訪の民は気質がよく分からない。地域としてのプライドが高いように思う。御柱の装束でカメラに収まる人たちは、かなりアジアンであり、現代の日本人には見えない。まるで山岳民族だ。土着的な「ふるさと出版社」ならば『御柱の100年』なんて本を出すのだが、小社だとさしずめ『御柱とアウトサイダー』なんて本になって赤字が膨らむのだろう。

 

 

●第129回●2008/7/10『Songs』小尾隆/STUDIO CELLO

  台所には蝿が飛び回る。   

  それを追い払いもせずにただ見つめる私。   

  不思議なことだよ。   

  朝起きて仕事に出かけ、   

  夕方には無口のうちに家に帰る、   

  それだけの人間になってしまうなんて。

 

 アメリカのフォーク歌手ジョン・プラインのこんな訳詞を載せるロック評論集は他にないだろう。副題は「70年代アメリカン・ロックの風景」。10年ぶりの復刊だというが、80年代後半からロックをあまり聞かなくなったので、著者の名前を知らなかった。

 CD店でビニール袋に入ってひっそりと展示されていたので、中身が見れない。70年代のアメリカン・ロックと言われても、今さら食指は動かないが、オビに「マーク・ベノ」の名を見つけて迷った末に購入。マーク・ベノとはレオン・ラッセルやエリック・クラプトンに通じるブルース&バラードが持ち味の歌手だが、「僕にしてもエリックにしてもブルースとバラードの間で音楽が分裂している」という本人の弁に「う~ん」。分かりやすく言うと、醤油ラーメンとカルボナーラを両方出してしまう悲しさなのだ(分かりにくいか)。

 他にもリチャード・マニュエルの項があったりして、好みが重なる。70年代前半に歌われた歌は、悲しい歌であっても、そこにはなにがしかの救いがあるように思えるのは郷愁のせいだろうか。次の「ハロー・イン・ゼア」もジョン・プラインの筆による。

 

  古い木はやがて強くなり、   

  川は次第に広くなる。   

  だけど人間は年をとるごとに淋しくなっていくんだ。   

  こんにちはって、   

  誰かに声をかけられるのを待ちながら。

 

 

 

●第128回●2008/6/2『犬の記憶』森山大道/河出文庫

 著者は立木義浩や篠山紀信とほぼ同世代の写真家で、かつて写真の概念を刷新したという評価を得たようだ。ケルアックの『路上』に強く惹かれ、日本中を走り回ったという。横尾忠則は解説で「彼の写真のいいところは感傷的な雰囲気とギリギリのところで背中合わせになっていること」と評する。これに関して、本人は次のように言う。

《写真とは、所詮感情を持つ人間の所産であり、1枚のショットのなかに否応なく写されてしまう個の思考、個の生理、個の性癖、個の記憶、個の美学、個の情緒などといったさまざまな属性を、いったい写真家はどこまで削ぎおとすことができるのか、あるいはそれじたい可能なことなのかと僕はとまどいつつくりかえし考える》

 

 

●第127回●2008/6/1『風俗夢譚』高部雨市/現代書館

 「こういった変態プレーみたいな所へ入ってちょっと救われたかな」と言うSMクラブのお姉さん、「女より女らしくありたい」と言うニューハーフヘルス嬢(オーストラリアと日本の混血なのでハーフ&ハーフか)……これだけ書くと色もの・際ものと思われるだろうが、それだけではない。

 知的発達に遅れのある青年の性、会社の金を使い込んでタイへ逃げ、日本にいる別れた妻(タイ人)からの仕送りで生きる男など、普通の体裁のいい暮らしから離れた人間の業や哀しさを辿ったルポルタージュだ。著者は記す。

《マッチポンプのように演出される一過性の情報に、群れたる人々は浮かれ踊らされる。(中略)だから、一瞬の「夢」を見たかったのだ。「夢」の中で、確かな人にふれたかったのだ。「夢」を紡いでみたかったのだ。あえて、「偏愛」の海を浮遊しながら、「普遍」という名の岬に漂着する。そんな思いで、ぽつりぽつりと、小さな舟を漕いで出た》

 かつて、こういったルポは少なくなかった。バブル後に激減したように思う。《転がり続ける人々》を追う目は、冷たい観察者のものであってはいけないし、逆にベタついてもいけない。かつて、小人プロレスを追った著者は自問する。

《オマエは、小人のマゾヒストという事実を知って、どうしようというのか。何をわかったつもりになろうというのだ。いつも安全な場所から、善人づらした上面で、「彼」の何を覗こうとするのだ》

 こうした自問があるか、ないか。久々にいいルポルタージュを読んだ。

 

 

●第126回●2008/5/31『嗤う日本の「ナショナリズム」』北田曉大/NHKブックス

 まず書名だが、『連合赤軍から2ちゃんねるへ』といったところが妥当だろう。連合赤軍の「総括」まで遡り、コピーライターの糸井重里、クリスタル属の田中康夫、広告屋の川崎徹、消しゴム版画家にしてテレビ批評家のナンシー関、2ちゃんねる等をネタに、若者の文化史・精神史を通観する。

 東京で就職した時、上司や先輩に団塊世代がずらり。やれ「総括しろ」だとか「自己批判しろ」と迫ってくる人がいたっけ。その頃、巷では糸井が大ブレーク。著者は糸井を「抵抗としての無反省」と好意的にくくっているが、「抵抗」の意志なんてあったのかよ。糸井がこれほど重用されるのは何故なのか長い間、分からなかったが、ナンシー関は『噂の真相』で「糸井重里がテレビに出ているのを見ると何だか暗い気持ちになる。(中略)誰かが『もうおもしろくねぇんだよ』とでもつっこんでくれたら、どんなに気が楽になるだろう」と喝破していたらしい。アッパレ、ナンシー関。いずれにせよ、糸井は「リベラルの皮を被った生活保守主義者」の先駆けだったのだ。ねー、団塊おじさん。

 1980年代以前の若者文化は多分にアンダーグラウンドだったり、サブ的な位置にあったが、80年代に入ると西武=パルコや糸井らによって「消費文化」が爛熟。資本やコピーライターといった「擬似的な超越者がつねに価値体系を再生産」していた。しかし、90年代半ば以降、若者は権威的な他者が提供する価値体系へのコミットを弱め、自らと近い位置にいる友人たちとの「繋がり」を重視するようになる。その繋がりは必ずしも同じ趣味や志向を伴うものではなく、繋がりそれ自体が自己目的化し、2ちゃんねるといった「繋がりの王国」を出現させたというのが著者の見立てだ。

 そこでは田中康夫などに特徴的だった批判的アイロニーは、内輪空間の繋がりのためのコミュニケーションツールになるという。「嫌韓」「反朝日」「反サヨ」といった「本音」なるものも、内輪コミュニケーションのなかで本音として構築された記号的対象だという。愛国心もそのひとつだ。アイロニズムが摩滅する時、対極にあったナイーブなまでのロマン主義が回帰するのだとか。だからこそ、『電車男』のような信じがたいほどの浪花節的な物語に涙したりするのだという。

 2004年にはネットでイラク人質被害者と拉致被害者家族という、左右の構図から見れば相反する対象へのバッシングが沸騰したらしい。もはや右派・左派というイデオロギー的な対立軸をはみ出し、反思想的思想=ロマン主義に覆われているという。こうした「アイロニズムの果てのロマン主義」の出現は小林よしのりの転向に象徴されるという。薬害エイズ訴訟支援運動から離脱していった「脱正義論」は反市民主義・ロマン主義の興隆を導くものだったとも。自己目的化に陥りやすい市民運動の根っこには、かつての学生運動と同質の危うさがあるわけだが、それらが退潮すると、今度はマーケティング業界を出自とするロハスなんてものが伸してくる。歴史はくり返される。

 小社も市民運動(環境問題)に立脚したような本をかつて何冊か出したが、現在はやや距離を置いている。正義の押し売り、運動の自己目的化、市民の顔をした傲慢さなどに当事者が無自覚なことがある。脳天気なロハスの時代だからこそ、この分野の出版には煩悶があるのです、K君。

 

 

●第125回●2008/5/30『左翼はどこへ行ったのか!』別冊宝島

 長野市で行われた聖火リレーでは、右翼の存在が目立った。チベットサイドに立って拡声器で中国を罵倒していたのは明らかに右翼青年だった。こんな場面で右翼が居場所を確保していることに大いに違和感を感じつつも、中国叩きという点では右翼の主張が本道になりつつあるようで、めまいを感じる。Do The Left Thing(スパイク・リー映画のもじり)なんていう精神スタイルはもはや通じない。

 だが、格差社会や貧困化に対抗して、一部でフリーター労組が気を吐き、資本主義の限界もささやかれる中で、左翼的なものが少しだけ見直されているようだ。そうした状況をすくうのが本書(気恥ずかしいタイトルだが)の意図だろう。三里塚闘士、知花昌一、奥崎謙三、藤本敏夫等々興味深い人たちも登場するが、一番引っ掛かったのは、小田実の項で引用された宮崎学の次の言葉だった。

 《自分や自分たちが正義であると思いこんでいる。こういう「正義」を振りかざす連中ほど、人に対してどこまでも無神経になれる。だいたい、日本には存在しない市民という単語をこの時代から使うこと自体でじゅうぶんいかがわしいのに、ベトナム戦争の最中にベトナムに平和をという運動は、まやかしだと思った》

 ある日突然チベット云々、という正義漢もいたりする。

 

 

●第124回●2008/4/19『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』都築響一/晶文社

 世界各地の中流家庭を訪ね「申し訳ありませんが、家のものを全部、家の前に出して写真を撮らせてください」と頼んで回った『地球家族』、内向的な少女が見ず知らずの人に道端で「すみませんがお財布の中身、見せてもらえませんか」と声をかけて作った写真集『財布の中身』、冷蔵庫を担いでアイルランドをヒッチハイクで1周した旅の記録『ラウンド・アイルランド・ウィズ・ア・フリッジ』、外来ではない日本初(?)の若者文化を論じた『ヤンキー今昔物語』、『万国心霊古写真集』『裏仕事師の本 Part4』……。

 これらをディープというのか、オタクというのか。「世間はおまえのことなんか見ていないんだ」と売上数字は冷たく語るかも知れないが、数百から数千の読者はいる(と思いたい)170冊の奇書珍書(人事ではないな~)。正統なものと闘う「サブ」の姿勢には拍手したい。

 賑わっている雑貨屋やCD屋の棚の脇に何食わぬ顔で自作の豆雑誌を勝手に置いてきてしまう(万引きならぬ万置き)ミュージシャンに乾杯します。

 

 

●第123回●2008/4/10『ルポ 貧困大国アメリカ』堤未果/岩波新書

 移民の高校生はマクドナルドのバイトで時給5ドルをもらえればいい方で、これが不法移民となると工場が内緒で時給2ドルでようやく雇ってくれる――。

 盲腸の手術で1日入院すると請求が1万2000ドル(132万円)。年間200万件の個人破産のうち、半数以上が高額な医療費が原因――。

 落ちこぼれゼロを名目に高校に競争原理が導入され、全国一斉学力テストの成績が悪い学校は助成金削減。学校は助成金カットを防ぐために軍のリクルーターに生徒の個人情報を提出。親の年収および職業、市民権の有無などを元にリストを絞り、大学の学費を国防総省が負担することや医療保険に入れるというエサで入隊を勧誘する――。

 市民権を得るために毎年約8000人の非アメリカ人が入隊。戦争まで民営化された結果、派遣会社がフィリピン・中国・バングラデシュ・インド・ネパール等々世界中から貧困層を戦地へ送り込む――。

 アメリカの二極化=貧困化がすさまじい。その原因は民営化と自由化だという。医療がその典型で、公的医療が縮小され保険外診療が増加すると民間の医療保険に入る国民が増える。結果、患者も医師も保険会社と製薬会社に牛耳られていくという流れだ。

 《現在、在日米国商工会が「病院における株式会社経営参入 早期実現」と称する市場原理の導入を日本政府に申し入れている》らしい。果てしなくアメリカに追従する日本低国もいずれこうなるのか。「後期高齢者医療制度」はそのステップか。

 クリスマスで賑わうニューヨークで、「ショッピングをやめましょう」と呼びかける牧師がいるらしい。《気がつきなさい子どもたち、目を覚ますんだ。君らが見ているのは幻想だということに。これは、多国籍企業という名のモンスターが作り出した、にせのおとぎの国なんだよ……ハレルヤ!》

 同じニューヨークのNPO「イラク帰還兵反戦の会」の創設者は言う。

 《戦争をしているのは政府だとか、単に戦争VS平和という国家単位の対立軸ではもはや人々を動かせないことに、運動家たちは気づかなければいけません。(中略)何よりもそれら大企業を支えているのが、実は今まで自分たちが何の疑問も持たずに続けてきた消費至上ライフスタイルだったという認識と責任意識を、まず声を上げる側がしっかり持つことで、初めて説得力が出てくるのです》

 

 

●第122回●2008/3/29『越境者 松田優作』松田美智子/新潮社

 高校時代、音楽映画以外で映画館で観た劇映画は『タクシードライバー』と『人間の証明』(1977年)だけだったと思う。「母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね」という有名なナレーションも、松田優作が遊郭で生計を立てる在日一世の母の私生児として生まれ育ったという出自を知ると趣が違ってくる。複雑な母への思いと《厄介な負》を反転させたという意味で、表現者として中上健次に通じる。

 1979年、優作は『処刑遊戯』『甦る金狼』『探偵物語』などに主演し、キャリアのピークを迎えつつあった。「もう少し頑張れば、ビッグネームになれるだろうけど、今はそっちの方へ気持ちがいかないのは、(生い立ちを)ずっと引きずって生きてきて、一回どこかで決着をつけないと、俺はだめなんだよ」「俺は修羅を背負って生まれてきたし、生きてきた。それを捨てちゃうのか、そのまま背負って、すごい世界へ行く俳優になるのか」と悩み続けたという。

 その頃、中上の短編小説に「内蔵まで出して、こういうことをちゃんとやった奴もいるじゃないか」と共感し、親しいシナリオライターにその小説を原作とする『荒神』の脚本を頼んだ。

《飽食の時代が続き、貯まった脂肪を燃焼させるためのダイエットに励む時代に、飢餓感などという言葉は、死語だろう。現在、活躍している若手の俳優たちは行儀がよく、物腰もスマートで、飢餓感とは無縁に見える。ここにしか生きる場所がないという懸命さ、求めるものをこの手で掴み取ってみせるという野心に満ちた眼の輝き、そんな表情は、しばらく見ていない》

 著者が松田優作の初めの伴侶であり、ノンフィクション作家であることは知らなかった。元妻の作家が、20年の時を経て冷静に描いた優作像が本書にある。優作が最期に傾倒した禅道場の主に対しては、怨嗟に近い感情をぶつけているが、やはり身内だから仕方ないか。

 病のためにロバート・デ・ニーロのオファーを断らざるを得なかったことなど、俳優や監督に関するエピソードは尽きない。女優でただ一人、言いたいことを言い合う盟友だった桃井かおりの一言に、松田優作もうなづいているだろう。

《正統なものとは闘わなきゃいけないんだよね》

 

●第121回●2008/3/28『微力な力 おバカな21世紀、精神のサバイバル』橘川幸夫・村松恒平/エンターブレイン

 

 「ロッキング・オン」創刊メンバーの橘川と、「宝島」の編集者だった村松の対談本。「なぜ70年代にサブカルは豊かだったのか! その真犯人であり目撃者である2人の自白調書だ」という渋谷陽一のオビ文につられて買ったが、金返せ。中途半端な理屈や念仏はクソの足しにもならん。「おバカな本」の著者に、次回の日記に書いた桃井かおりの言葉を贈ろう。

 

 

●第120回●2008/3/17『フリーペーパーの衝撃』稲垣太郎/集英社新書

 日本では現在、1200紙誌、年間3億部近いフリーペーパーが発行されているらしい。生活に根ざした地域情報を載せるコミュニティーペーパー、年齢・階層を絞ったターゲットマガジン、ニュースペーパーの3つに大別されるようだが、日本では前2者がほとんど。宅配制度に支えられた新聞業界の抵抗によって、無料のニュースペーパーは成り立ちにくいという。

 インターネットとフリーペーパーの普及によって「情報の無料化」は今や常識。スウェーデンで無料の日刊新聞を創案した人物の言葉が印象深い。「情報の送り手は記事内容と引き替えに読者からもらった時間を広告主に売っているということ」。

 すべては広告主と広告屋の手に委ねられるようで嫌な感じだが、これがさらに進むと、多くの企業が独自にフリーペーパーを発行して消費者を囲い込むという。メディア産業はそのコンテンツの質が今まで以上に問われるとも。メディアの数は確実に減っていくだろう。

 「フリーペーパーの想定読者層の中心は、新聞も読まない、雑誌も買わない若者たちだ」というが、中高年も雑誌や書籍を年々買わなくなっている。本来、メディアの寡占化は読者の利益にはならないが、「タダほど高いものはない」と気がつくのは何十年後だろう。嗚呼。

 

 

●第119回●2008/3/13『敗戦の記憶』五十嵐惠邦/中央公論新社

 戦後の日本人は原爆投下と昭和天皇の聖断を、なんとか納得して合目的化するために、敗戦をどのように「記憶」し、また「隠蔽」してきたのかを、丸山真男や野坂昭如、三島由紀夫、ゴジラや力道山などを取り上げながら再検討する。

 著者は米国バンダービルト大学の準教授だそうだが、学者特有の持って回った言い回しにとても疲れる。切れ味はジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』にはるか及ばない。各新聞社の書評委員に大学教授が少なくないため、こういうのが各紙の書評でもてはやされるが、書評委員制度を抜本的に見直すべきではないだろうか。

 

 

●第118回●2008/3/12『枯木灘』中上健次/河出文庫

 という訳で、中上健次初の長編小説『枯木灘』を読む。雑誌連載が1976~1977年、単行本化が1977年で、この文庫は1980年が初版、以来30刷を重ねている。

 相次いで3人の夫との間に6人の子どもを儲けた母と、放火や謀略によって財を成しながら3人の女をほぼ同時期に孕ませた実父、母に捨てられ精神を病んだ末に自殺した兄、貧しさのため遊郭に身を落とし独り身のまま怨念を引きずり噂話を町中に広め歩く伯母……。

 こうした因果は一族の中で繰り返される。16歳の姪っ子が子どもを孕み、妾腹のいとこは白痴の少女を犯してしまう。主人公は腹違いの妹と男女の関係を結び、やはり腹違いの弟を撲殺してしまう。

 獣のような実父を憎みながらも、いつの間にか自分がその跡をたどってしまう因縁。高山文彦は父殺しや母殺しのギリシャ悲劇に模していたが、私は極めて日本的な因果律を感じる。少なくとも、明治・大正生まれの「父親」の中には、獣のように横暴な人間が少なくない。日本の近代が常に抱えていた欧米への劣等感や成り上がり指向が、こうした男を生んできたのではないかと思う。それは昭和生まれの我々の中にも、形を変えて受け継がれているのだ。

 迫力の点では梁石日の『血と骨』に軍配を上げたい。それにしても、古い文庫本は活字が小さくて目に辛い。30刷なのに明らかな誤植があるのは、どういうことだろう。

 

 

●第117回●2008/3/5『エレクトラ』高山文彦/文芸春秋

 中上健二が『岬』で芥川賞を受賞するまでの若き日々を主とした評伝。部落差別が色濃く残る故郷紀州の土地と血縁を創作の発火点とする中上健二にふさわしいかどうか分からないが、読後感は非常にすがすがしい。

 それは、『鬼降る森』で生まれ育った九州高千穂を神話的かつ民俗的に描き、ハンセン病作家北条民雄の『火花』や、部落解放運動に関する『水平記』を書いてきた高山文彦が中上の核心を描ききったからだろう。

 中上の詩に新井英一が曲をつけた『リキに捧ぐ』の主人公との放蕩の日々や、永山則夫へのシンパシー、『岬』のエンディングを編集者の案に沿って書き直したため受賞を逃す恐れがあったことなど、エピソードは尽きない。

 受賞後に江藤淳が『岬』を文芸時評で絶賛し、若き中上はそれを繰り返し読み返したという。江藤の晩年の迷走はこの際不問に付して引用しよう。

《読者は、作者が「いっそ書かなければいい」と思いながら書いているものなどに、用はないのである。(中略)読者はむしろ、作者の歌を聴きたいと希っている。中上氏の『岬』から聴こえて来るような、個人の心の奥底から湧き上がって来る歌を。その歌は、ジャーナリズムの演出する“時代の歌”とはなんの関わりもない歌である。“反戦”の歌、“平和”の歌、“原爆反対”の歌。これら“時代の歌”の特徴は、それが“正しい”という点にある。しかし、これらの“正しい”歌が時代を制圧したとき、文学は滅びる。なぜなら、人が決してつねに正しくはあり得ぬかぎり、つねに“正しく”あり得るような立場をとることはかならずなにがしかの偽善を含まざるを得ないからである。(中略)かかる“時代の歌”を含む文学は、かならず薄汚れる。それは“正しい”ことによって薄汚れ、“正しく”あろうとする偽善によってさらに薄汚れる。しかし、幸いにして、中上健二氏の『岬』から聴こえて来る歌は、そういう“時代の歌”とはまったく異質である》

 まれに良い「時代の歌」もあると思うが、「正しいがために薄汚れる」にはまったく同感。自分で自動車を乗り回しながら「温暖化が~」などと徒党を組む環境派のN君、君のミニコミは正しさに薄汚れているのだよ。

 おっと、脱線してしまった。『岬』しか読んでいないので『枯木灘』でも読もう。

 

 

●第116回●2008/2/20『暴力批判論』太田昌国/太田出版

 2003年の『「拉致」異論』が衝撃的だった太田昌国。本書は死刑・戦争・グローバリズムなど「国家暴力」に対する批判論だ。

 「死刑」と「戦争」という人を死に至らしめる「権利」を国家が独占する中で、「テロとの戦争」とか「死刑制度は凶悪犯罪を抑止する」とった幻想が振りまかれているが、著者は世論がそれに引きずられ容認していく流れに危惧する。そして、《国家を秘密の軸として「死刑」と「戦争」が結びついている構造を見抜く必要がある》とする。

 死刑制度については、被害者の応報感情が最近クローズアップされているが、これについて松本サリン事件の被害者である河野義行氏が麻原彰晃の第一審判決の直前に出した手記が引用されている。

《私は被告が冤罪の判決を受けた時にのみ沈黙を破ってほしいと思っている。逆に被告が罪を犯しながらも、無罪になったとしてもかまわない。なぜなら、その行為は自身を欺くことになり、自己否定につながるからだ。地獄を説いた被告にとって、真実を曲げる行為は極刑よりもつらい罰になるだろう。どのような生き方も被告自身が選択したらよいことであり、私の人生とは別のものである》

 他の遺族が「極刑でも足りない」と憤る中で、あまりにも超越した感じがあるが、《この差はどこから生じるのか》を「文明国」の人間は考えてみる必要があるのだろう。

 著者は1970年代にラテンアメリカ諸国で労働をしながら旅をし、80年代からは第三世界と帝国主義に関する著述・出版(現代企画室)を続けている。アメリカは「9.11」の悲劇を独占して対テロ戦争を行うが、そもそもチリで1973年の同じ日付に起きた軍事クーデター、ニカラグアやエルサルバドルでのテロリストの武装などにアメリカは大きく関与してきたし、古くはキューバやパナマで火事場泥棒を重ねてきた。

《自らの軍事力・経済力・政治力を背景に相手国に押しかけ、あまつさえ、その措置が相手国の「独立」に配慮しているかのごとく振る舞うのが、米国式民主主義なのである》

 沖縄の場合も同じだろう。米国式民主主義は米国式資本主義と言い換えられるが、米国のある先物取引業者は9.11の直後、「真っ先に考えたのは、これで金が高騰するぞ、だった。(中略)つぎの戦争が待ち遠しかったね」と言う。著者はこれは《犠牲者が身近にいない場合の、経済効率優先社会に生きている者の本音》だとする。

 日本では小泉以来、アメリカにそそのかされて「民間でできることは民間で」「自由競争」「グローバル・スタンダード」に熱心だが、《ソ連・東欧の社会主義圏が崩壊し、唯一の超大国となった米国を筆頭とするG7グループが世界規模で推進しているグローバリゼーションという「暴力」》は《不平等な出発点を固定化したまま弱肉強食を原理とした経済秩序を世界全体に押しつける》という。

 中国のギョーザ問題もこの流れの中にある。

 

 

●第115回●2008/2/16『書店員の小出版社巡礼記』小島清孝/出版メデイアパル

 大手書店で人文書を長く担当した書店員が30社ほどの小出版社を訪ね、代表者でもある編集者が何を考え、何をなしてきたかをまとめたもの。現代書館/トランスビュー/北斗出版/藤原書店/七つ森書館/石風社/NPO前夜など、気になる出版社が多く含まれる。

《特筆することは、常に「少数意見」の代弁者としての出版活動が、戦後間もなくから連綿と続いていることでしょう。それらを担ったのは、経済的成功よりも、自らの信念に従い、出版活動を生きることそのものとした小出版社の代表者たちでした》

 著者はあとがきでこう記す。本編を読むと、ちょっとキレイゴトが過ぎる部分もあるが、それを差し引いても耳が痛い。

 私の場合、経済的成功などはハナから望んではいない。「自らの信念」は常に揺らぐ。「少数意見」は意識しているものの、それをどれだけ本に出来ただろう。食っていくためには、多数を意識した本も出さなくてはならないし……。年ごとに「少数意見の代弁者としての出版」が成り立ちにくくなっていると思う。

 

 

●第114回●2008/2/6『死刑』森達也/朝日出版社

 死刑制度というテーマのためか、森達也にしては切れが悪い。死刑の是非に白黒をつけるのではなく、その是非に対する煩悶をそのまま提示しようという作戦だったのだろう。取材前にこの本を「死刑をめぐるロードムービー」と位置づけていたようだ。

 死刑確定を待つ人、冤罪が証明されて奇跡的に生還した元死刑囚、弁護士、元検察官、元裁判官、刑務官、政治家、制度の廃止派・存置派などに森は次々と会っていく。ロードムービー的な気分のためか、やや散漫な記述が続くが、教誨師と光市母子殺人事件に関する箇所は印象的だ。

 死刑囚の半数以上は宗教家との面談を受け入れるらしいが、本書に登場した教誨師は自らはほとんど語らず、死刑囚の話を聞き続けるのだという。どちらかといえば冷静で感情のコントロールができる宗教家であっても、初めて死刑執行に立ち会った時には「(感情が)壊れました」と言う。

 光市事件の被害者である本村洋氏は意外なほど死刑の是非について苦悩している。

《死刑制度の本質は、「何故、死刑の存置は許されるのか」ではなく、「何故、死刑を廃止できないのか」にあるのだと思います。換言するならば、「何故、権力は死刑という暴力に頼るのか」、「なぜ、国民は死刑を支持せざるをえないのか」です》

 この問いへの答えは、別の章で森が簡潔に述べている。

《天敵を失ったことで慢性的な不安を身の内に抱え込んでしまった人類は、動物の中で唯一、自らの死を知ってしまった種でもある。見えない敵への恐怖と自らが消滅することへの根源的な不安。ダブルだ。これはつらい。だからこそ人は、絶対的な価値や規範を求めずにはいられない。この絶対的な価値や規範は、死への恐れを中和する宗教と親和性が高い。一致することも多い。(中略)価値や規範を可視化できない個々の苛立ちや恐れが、絶対的な正義の存在を希求する。人は規範に従いたい生きものなのだ》

 

 

●第113回●2008/2/4『書肆アクセスという本屋があった』「書肆アクセスの本」をつくる会編/右文書院

 書肆アクセスとは、小社もお世話になっている地方小出版流通センターの直営書店で、神田神保町にあった。文字通り地方の本と小出版社の本を一般販売するほか、書店への卸し販売も行なっていた。

 31年間の歴史に幕を下ろした理由は、書店への現金卸しと一般販売が共に激減したためらしい。書店は取次(問屋)からの配本だけでは客のニーズに応えられないから、独自に現金仕入れをしていた訳だが、年間1000軒もの書店が閉じるとともに大型店に集約化される中で、こうした神田村の役割は縮小してしまったようだ。一般販売の減少はネット通販の影響だろうか。

 なくなってからその存在の大きさに気付くという典型かも知れない。書籍の流通はますます単線化され、地方の本はこれまで以上に排除されていくような気がする。地方出版社がアマゾンとの低正味の直接取引を喜んでいる先に何があるか。寡占化の先に何があるか、不気味である。

 本書はアクセスと関わりが深かった80人の寄稿によって編まれているが、それによると地域雑誌の代表選手であった「谷根千」も売上不振から間もなく終刊するという。「小」が成り立ちにくい状勢に拍車がかかっている。

 

 

●第112回●2008/2/3『ディランを語ろう』浦沢直樹・和久井光司/小学館

 1960年生まれの漫画家、浦沢直樹と1958年生まれのロック野郎、和久井光司がボブ・ディランを語り合った。上の世代に独占されていたディラン論がようやく下の年代(といっても50近いが)に引き下ろされた格好だ。あまり神格化せずに、等身大の歌手論・作家論になっているが、脱線やヨタ話、推測の域を出ない話も多い。

 いまさらディランか、という感も否めない。書店で買うかどうか迷った。結局買った決め手は、PANTAのインタビューが挿入されていたからだ。高校の同級生のT君が頭脳警察を引いたPANTAの大ファンだったので、度々聞かされた。あまりに直截な歌詞に馴染めなかったが、気になる存在ではあった。本人も「ある部分は俺も恥ずかしいもん」と言うほどだが、今の右寄りな世相には貴重な存在だ。

 そのPANTAも最初にディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」を聞いた時は「ガツンときた」らしい。高校生の私もこの歌の「どんな気がする!(How dose it feel)」でウップンを晴らしていたから、今こんな風になってしまった。

 浦沢のツテでこの手の本にしては珍しく小学館から出ているが、誤字・脱字の連発はどういう訳だろう。大手出版社は校正も校閲も専門家が付いているはずだが、露骨なサブカル軽視か、タガが緩んでいるのか。

 

 

●第111回●2008/2/1『迷宮の将軍』ガルシア・マルケス/新潮社

 いやはや、新刊の追い込みのため、約1カ月も空いてしまった。

 ラテンアメリカ文学の巨匠が1989年に書いた本作には、もはやマジック・リアリズムの影はない。いつまでも『百年の孤独』の影に追われるのは、本人にとって迷惑なのかも知れない。しかし、「マジック」云々を別としても、これは駄作ではなかろうか。

 中南米をスペインの侵略から解放した英雄シモン・ボリーバルの最晩年の失意を描く、という設定自体はマルケスらしくて興味がそそられるが、物語はダラダラと進行していく。

 新潮社さん、マルケスのシリーズ化には拍手だが、2600円は高いよな~。

 

 

●第110回●2008/1/8  2007年の新刊ベスト10

 昨年発行された新刊の私的ベスト10だが、どうも分野と著者が固定化していていけません。今年は小説を読もうか。Nさん、M君、お勧め本を教えて~。

1位『たんば色の覚書』辺見庸著・毎日新聞社

2位『累犯障害者』山本譲司著・新潮社

3位『黄泉の犬』藤原新也著・文藝春秋

4位『北朝鮮へのエクソダス』テッサ・モーリス・スズキ著・朝日新聞社

5位『生きさせろ!』雨宮処凛著・太田出版

6位『森を育てる技術』内田健一著・川辺書林

7位『ホワイトハウスから徒歩5分』金平茂紀著・リトルモア

8位『ビッグイシュー 突破する人びと』稗田和博著・大月書店

9位『ぼくの歌・みんなの歌』森達也著・講談社

10位『戦争いらぬやれぬ世へ』むのたけじ著・評論社

 

 

●第109回●2008/1/5『たんば色の覚書』辺見庸/毎日新聞社

 年初からやや重いかも知れないが、お屠蘇醒ましにこの1冊。

 病床にある辺見庸が意外なペースで書き下ろしを発表している。やはり昨年出版されたアンソロジー『記憶と沈黙』に続いて、三菱重工爆破事件の大道寺将司ともう1人の死刑囚との交流を通して、死刑制度や自他の痛みについて記している。死刑存置派の一部が「私は犯罪被害者と交流を続けている。貴方は被害者の実情を知っているのか」という論拠を持ち出すことがあるが、これと対象をなす。しかし、「交流」などという言葉がふさわしいかどうか、分からないが。

 《今後は絞首刑の執行をテレビで全国津々浦々に実況中継すべきではないか。正視できない、あまりにも酷すぎる、無残だというならば、放送ではなく死刑を即時廃止すべきではないか。そうできぬものはなにか。もう一度問う。そうさせないものはなにか。黙契に反するからではないのか。私には黙契を完全に反古にする覚悟があるだろうか》

 極論ではあるが、これに尽きるのではないだろうか。黙契とは国家や資本や共同体との暗黙の委託・承認・結託であり、場合によっては自分自身とも結ぶことによって「素晴らしい日常」が保証されているという。

 アジア諸国への軍事的・経済的侵略によって栄えた近代日本への批判に共感してゲバ棒も振るってみたが、三菱重工や浅間山荘の事件が起きるや、「挫折」というポーズをとって、知らんぷりを決め込み、やがては無自覚となった団塊諸君は次の一節をどう思うだろう。

 《たとえば、山口県光市の母子殺人事件被告人を極刑にせよと皆でさけび唱和する隣人たちの正義と善意と平安に私は激しい悪心を禁じることができない。あの能弁に戦(おのの)く。被告人と弁護団を「公共の敵」と呼ばわる群の秩序と平安を私は憎み、おびえる。(中略)が、私がもっとも憎むのは、「やつを殺せ」という蛮声に眉をひそめるふうをしつつ処刑をいたしかたのないことと内心受け入れて、日ごとの思念から不祥の影をこそげ、おのれはうるわしく生きようという「知」のありようではないか》

 それでは、こうした黙契からいかに脱却するか。

 《私たちは集団のなかで集団を通してしか抵抗していなかった。単独者は抵抗の担い手たりえないとされていました》《バートルビーの抵抗は徹頭徹尾、個的な不服従です。それは物語化、英雄化の峻拒です。それはあくまでも単独者の自己存在を賭けた拒否によってこそなし遂げられるものであるはずです》

 労組や左翼組織は言わずもがなだが、住民運動はニセ科学者やイデオローグを担いで教団化しがちだったし、市民運動はサークル化している。かつての長野県知事は「コモンズ」なる念仏を唱えて去っていった。

 《「公共空間」というと民衆的な新しい共同性を体現する価値のあるものと考えてしまいますが、そこにすらネオファシズム的な強制力が溶けて流入してくる可能性がある。人間の繋がり合いとうのはとても大事です。だからこそ私たちは常に個という極小の単位に立ち返る必要がある。「私」という単独者の絶望と痛みを、大げさにいうならば、世界観の出発点とする。絶望と痛みは共有できず交換も不可能である。そのことを認めあうほかない。そこではじめて、他者の痛みへの想像力や存在自体への敬意が育つのではないかと私は考えています》

 

 

●第108回●2007/12/28『この国の品質』佐野眞一/ビジネス社

 書店で書名を見た瞬間、「品格ブーム」への当てこすりであることは理解できたが、読了後、なぜこんな本を出したのか理解できない。

 2003年から2007年までの講演録・エッセイ・ルポルタージュを1冊にまとめたものだが、同じ記述や同種の記述を数回ずつ、数次にわたって読まされると、だんだん腹が立ってくる。私の職業病だろうか。「はじめに」で「重複する箇所があることをあらかじめお許しいただきたい」とあるが、これは許せる範囲ではない。編集段階で手の施しようがなかったのか。そもそも出すべきではないのではないか。

 ルポルタージュの大家がオビに「日本人の劣化」を謳いながら、こんな本を出すようでは「ルポルタージュの劣化」との謗りも免れないだろう。品質不良。

 

 

●第107回●2007/12/27『環境リスク学』中西準子/日本評論社

 地球温暖化対策が万人の切実なテーマになったかと思いきや、「二酸化炭素削減のために木を植えましょう」などという短絡的な話がまかり通るのを見ると、環境問題には如何に誤解が多いのかと改めて感じさせられる。武田邦彦の『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(本欄第90回)が売れるのも無理からぬことだ。

 本書の著者、中西準子は時々の支配的な論調に対して真っ向から異論を提起してきたが、武田某のような講談師とは違う。

 環境リスクとは、「目に見えないだけに、明日にも地球が破滅するかのように吹聴されることがある一方で、重大なリスクが放置されていることもしばしばあります。そして、リスク不安だけが大きくなっています。現状では行き当たりばったりの対応が多く、これは余りにも無謀です。無謀な行動は、必ず、この地球上で最も貧しい人と地球環境へのしわ寄せとなって現れます。それはどうしても避けたいことです」という。

 具体的にはダイオキシン・環境ホルモン騒動、BSE(狂牛病)の全頭検査などにおける誤解を解き明かし、ファクト(事実)に裏付けられたリスク評価の概要を記している。ゴミの焼却炉がダイオキシン発生の主因のように言われた1998年当時、母乳中のダイオキシンは25年前に比して半減していたというが、これは農薬の不純物が主たる発生原因だったことを見落とした空騒ぎであったという。

 リスクには科学的に詰めた「科学的評価リスク」、社会の意思決定で用いる「意思決定のためのリスク」、かなりの国民が抱く「不安としてのリスク」の3種があり、この順にリスクの範囲は大きくなるという。この差を縮める努力を怠って、不安リスクをそのまま受容して、それを基に国の政策が決まるようになると、非常に無駄が大きくなるという。この典型がBSE問題で、全頭検査にほとんど意味がないことが分かっているのに、「安心だから食べろ」と言わんがために続けられているという。

 小学生の頃に、日本共産党の分裂過程で父親がすさまじい理論闘争をする様子を見ながら、「父の主張が正しいのだろうが、相手の言うことにも理がある」と感じ、以来、思想闘争とは距離を置いているという。と言うのも、環境問題に関わる科学者や自称科学者には「思想派」が少なくないからだ。かつて小社で発行した産業廃棄物に関する本も、実にイデオロギー的な本だった。

 著者は「どこかの組織に入って、そのことを主張するのはいやでした。それは、組織に分かれて思想闘争をするということでしたから、どうしてもいやでした。(中略)私の訴える対象は組織ではなく、一人ひとりの個人、組織の中の人も含めての個人でした」とし、思想の違いを越えて認めることができる事実=ファクトにこだわったという。

 組織から個へ。これを最近強く感じる。

 

 

●第106回●2007/12/26 論座2008.1「殺された側の論理」と「犯罪不安社会」のゆくえ/藤井誠二×芹沢一也

 右寄りな論調が幅をきかす、よみうりテレビの「たかじんのそこまで言って委員会」。死刑存置をたびたび取り上げ、三宅久之などは「やられたら、やり返せ」と応報感情を煽り立てる。北朝鮮や中国に対しても似たような調子だ。

 さて、今回の「論座」の対談で芹沢は「犯罪被害者の応報感情と、それと連動するかたちでの世論の厳罰化の高まりが、死刑という制度を正当化し後押ししてしまっている」と指摘する。そして、それをさらに増幅しているのが、メディアによるステレオタイプ化された犯罪被害報道だという。

 メディアは被害者への想像力を豊かにするために被害情報を流しているのではないだろう。藤井によると「被害者が100人いれば100通りの事件の様態や物語があるから、報道しても報道しても枯渇しない。そのことにメディアが気がついたということ」だという。しかし、被害者という検証の仕様のない絶対的な存在を、無条件に報道し続けることの意味をテレビ界の人間は自覚しているのだろうか、古館君。

 視聴者はこうした被害情報をむさぼるように消費する。論座の担当編集者は「弱き者への共感は尊いが、それと紙一重のところに、彼らを消費して自分が気持ちよくなっちゃうという『下品』があることを意識しておきたい」という。

 こうした報道を支えるのは、約8割に及ぶという「体感治安が悪化した」という認識だろうが、これは犯罪統計上まったく根拠がなく、いまだに日本は先進国の中でも飛び抜けて治安がいい。セキュリティーの問題よりも、「犯罪を犯すような理解不能なモンスターは、この社会から排除しろ」という底意に支えられているのだろう。まさに殺伐とした世の中だ。

 最後に「そこまで言って委員会」に話を戻して一言。勝谷誠彦というテレビ芸者に「恥」という言葉を贈ろう。

 

 

●第105回●2007/12/25『作家的時評集2000-2007』高村薫/朝日文庫

 少ない読者の皆さんご無沙汰してました。年末に向けて、読んだ本をパパッと書いてしまおう。

 高村薫の小説は1冊も読んでいないが、地方紙に時折載る政治評論には注目していた。こうしてそれらを1冊にまとめた時評集を読むと、意外と当たり前のことを言っているように思うが、それは風化が早い時評の宿命か。

 ほぼ政治と社会に限定された90編近いコラムから1つを選ぶとすれば、2005年に書かれた「私たちは『被害者』を消費していないか」だろうか。JR福知山線の大事故を受けての時評だが、日本の企業社会全体から「公共」や「安全」という概念が抜け落ち、思考停止のまま新自由主義の競争社会へと突入している、という指摘はよくある。が、事故を受け止める我々はどうか。

 こうした事件や事故が起きると、マスコミを先頭にバッシングが始まり、同時に被害者に対する情緒が煽られる。テレビやインターネットで増幅されることによって、我々は一定の情緒的な反応をもつことで共有感が強まり、情緒はさらに広く伝播してゆく。しかし、我々は公共や安全について考えるのではなく、漠とした不安の中で、半ば鬱憤晴らしのようにニュースを消費しているだけではないのか――。

 こうした情緒の噴出は、北朝鮮による拉致問題、イラクで拘束された日本人への「自己責任論」、中国の反日デモへの反応などでも見られたという。放出される情緒の正体は、先行きに対する漠とした「不安」なのだが、我々はとりあえず情緒を放出して、また日常へ戻っていく。その不安の原因を突き止めるために「考える」ことはせず、鬱憤を晴らしてやり過ごす……。

 特に古館の「報道ステーション」は「被害者の消費」が著しいが、これについては次回に続く。

 

 

●第104回●2007/11/13『酔客万来』酒とつまみ編集部編/大竹編集企画事務所

「あの~、よかったら一緒に飲んでもらえませんか」――著名人を迎え、ただただゆるゆると飲み続けた酒宴の記録、とオビにある。その光栄に浴したのは中島らも・井崎脩五郎・蝶野正洋・みうらじゅん・高田渡の5人。

 みうらじゅんは「今どきさ~、ないですよ。全ページ白黒の『月刊住職』みたいな雑誌を、ある日突然送ってきてね。一緒に飲んでくれって。怖いですよ。こんなん作っている人、絶対頭おかしい人に決まってるんだもん」「それでオレ、挑戦状かなって思ってね(笑)」と、まんざらでもなさそう。

 

  一杯飲み屋で安酒をあおって

  それで毎日毎日が忘れられるというのなら

  僕は有金のすべてをはたいても

  有金のすべてをはたいても

 

 こんな歌も歌っている高田渡は、知人の計算によると20年で2500万円飲んだという。この人と中島らもは半ば酒が呼び水となって鬼籍に入っているが、他の3人も含め人選が絶妙。蝶野が語るプロレスラーの宴会もすごい。アントニオ猪木やアンドレ・ザ・ジャイアントはまさに規格外だ。

 こういうゆるい本もたまにはいい。地方小出版流通センターの売行良好書8~9月の4位だが、なんと小社『森を育てる技術』は3位であった(はい、自慢してるんです)。この版元からは『中央線で行く東京横断ホッピーマラソン』という奇書も出ていて食指が伸びるのだが、重松清が登場するようなのでやめておこう。

 

 

●第103回●2007/11/12『ぼくの歌・みんなの歌』森達也著/講談社

 地元で長野五輪にタテついたオジサンの家に『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』のアルバム・ジャケットが飾ってあったが、森達也もやはりニール・ヤングか。もともと気が弱いのに、1000人のうちの999人と見解が違っても、「王様は裸だ」と言ってしまうのがニール・ヤングのシンパだろう。と言うよりも、ロックとはそういうものだった。

 ニール・ヤングを聴かなくなって久しいが、「9.11」の犠牲者追悼ライブで放送禁止扱いの「イマジン」を歌う姿をテレビで見た時には、久々にロックに震えた。歌は世につれるが、世は歌にはつれない。「ジョン・レノン=ラブ&ピース」という思考停止の万年平和主義も困ったものだが、この時のこの歌には力があった。

 というように、歌と時代と個人的体験はその3つがからみ合うことで強烈な印象を残す。いわゆる心の歌や時代の歌を25曲取り上げた本書には、他にブルーハーツ/あがた森魚/ボブ・ディラン/ジョン・レノン/高田渡/忌野清志郎/クィーン/中森明菜/友部正人/ちあきなおみ等々が登場する。

  電気屋の前に30人ぐらいの人だかり

  割り込んでぼくもその中に

 「連合赤軍5人逮捕 泰子さんは無事救出されました」

  金メダルでもとったかのようなアナウンサー

  かわいそうにと誰かが言い 殺してしまえとまた誰か

  やり場のなかったヒューマニズムが

  今やっと電気屋の店先で花開く  ―友部正人「乾杯」―

 

 34年前にこの歌を作った友部と、オウムの映画を撮った森の視点は同じだ。だからだろうが、友部と会った際の、顔から火が出るような森の態度には笑える。

 本書で取り上げる25曲は大半が私にとっても印象深い。高校生の時に大嫌いだったクィーンも、フレディー・マーキュリーが移民の子で特殊な宗教的背景を持っていたことを初めて知って、何だか納得。物語としては、シベリアの永久凍土に囲まれた町で聴いたという「ホテル・カリフォルニア」が映像的でもあり、出色だ。

 

 

●第102回●2007/11/6『黄色い雨』フリオ・リャマサーレス著/ソニー・マガジンズ

 小説は誰かの推薦本をたまに読む程度だが、本書は吉岡忍が挙げていたスペインの中堅作家の作品。やがて廃村になる村で、近隣の住人や子どもに置き去りにされ、妻にも先立たれた男が愛犬と共に迎える最後の日々を淡々と描く。

《父があのように冷静に死を受け入れたことを見て心を打たれたが、おかげで自分が死と向き合うことになった時にそれが大いに役だった。私が恐ろしいと思ったり、絶望感に襲われないのは、そのせいなのだ。私はまもなくこの世からいなくなり、人から忘れ去られるだろうが、その中に安らぎを見出している。(中略)そんなことができたのも死を冷静に受け入れる心構えができていたからなのだ》

 こう言いながら、この男は最期まで煩悶する。結局、死を受け入れてはいないのだ。しかしまた、孤独と死を扱いながら、全体の基調は絶望的なトーンではない。この辺が「冷たい熱狂」というような支持を得ている理由だろうか。とはいえ、これが「奇蹟の小説」とは言い過ぎだ。小説のレベルはラベルの貼り方次第のような気もして、「糞リアリスト」は小説に深入りできない。

 

 

●第101回●2007/10/31『すぐそこにある希望』村上龍著/KKベストセラーズ

 初めて村上龍のエッセーに違和感を覚えた。これまでにはなかったことだが、それは何故だろう。

 村上は現代を象徴するキーワードは「趣味」であり、現代のすべての表現は「洗練化」と「なぞること」に集約されると言う。「考え方や生き方の変更を迫るような作品は好まれない」とも。

 小さな差異が問われ、その末に互いに分断されているのだろうか。村上への違和感もこの辺に理由があるような気がする。なお、書名には意義がある。あざとさが臭うのだが。

 

 

 

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